夜明けは訪れるのか(2)
Emu sickS初の全国流通盤フルアルバム『夜明け前のジーニアス』が10月25日に発売されます!やったー!
予約はこちら
■タワレコ
http://tower.jp/artist/2200819/Emu-sickS
■ディスクユニオン
http://diskunion.net/portal/ct/list/0/72363749
■HMV(H&Mじゃないよ)
http://www.hmv.co.jp/artist_Emu-Sicks_000000000727630/
音源発売にあたってブログを書き始めていたら、気付いたらEmu sickSの過去を振り返っていたんだけれども、前回は僕達が2010年、The denkibran倉坂さんとCUSTOM NOISE安齋さんのおかげで、堺の温室でぬくぬくしてた僕らはしっかりと大阪市内へのライブハウスへと活動範囲を広げていたのでした。
2010年から天王寺Fireloopに出だしてみると、モケーレムベンベ(当時は全然話したりしなかった)やThe Marble、HeLpとかと対バンしたりしていた。天王寺Fireloopの野津さんに色々とアドバイスをもらった。時に「ボーカルを変えよう!」と言われて絶句したこともあった(実力をつけなさいという言葉の裏返しだと思うけれども)。
その年の9月に心斎橋FANJから突然ブッキングのメールが来た。何だかブッカーは城本という人物らしく、話を聞けばこんぼいと呼ばれている人らしい。なんだこのふざけた名前は、と感じた。
FANJ初出演時、共演はJONNY、ジラフポット、世界はときどき美しい、キュウソネコカミだった。
キュウソは当時白シャツに血糊をべったり付けて、チャンピオンズリーグとかの曲をやっていた。人のほとんどいないライブハウスでセイヤさんがクラッカーを鳴らし、乾いた音がライブハウスにこだました。パーン。
たしかその時に今回のジャケットを描いてくれているふきのんもいた、はず。
思い返してみると、なんで天王寺Fireloopの野津さんと心斎橋FANJこんぼいさんと、当時FUZZの倉坂さんがこんなに良くしてくれたのかはわからない。
実際演奏も曲もまだまだすぎたし。態度もそんなに外には向いていなかった。
でも幸せなことに色んなバンドにあててもらって、充実していた。
でもあくまでそれは大学の軽音サークルの「延長」でしかなかった。
やっぱり大学のコピーバンド中心の軽音サークルが主軸だったし、色んな青春も失敗もそこに置いてきた。
お酒を飲んでどこかにぶつけて流血したり(最近も前歯2本欠けたけどね)、学祭にでたり、時間が空けば部室にいってダラダラして、夜が来れば帰るかバイト行くかしてたくらいだ。けど、僕は成績は優秀だった。ははは。
2011年にはまたキュウソや、KANA-BOONや、ビレッジマンズストアにもあたったりしていた。当時神戸にビルジャックという、今で言うサーキットイベントみたいなものがあって、勢いがあった。何回か出させてもらったものの、根っからの人見知り根性が邪魔してそんなに輪は広げることはできなかった。相変わらず大学の成績は優秀だった。
ちなみにFunny Funk Fishとの初対バンも神戸である。ほとんど喋ってなかったけども。
この時は互いに自分が16ビートはやおになるなんて、パンケーキ王子になるなんて、思いもしなかっただろう。
この年にEmu sickSのメンバーの半分は就職活動、半分は大学院進学にむけて動いていた。「研究やりたい!」っていうのと「バンドもやりたい!」っていう二つの願望が見事にミックスされて進学の道を選んだ。
ちなみに、この年にカミコベのオーディションの最終に残っていたんだけれども、楽屋でなかじんは必死に就職のためのエントリーシートを書いていた。死相がでていた。
そんなメンタルでライブに挑んだもんだから、当然落ちた。
うさぎの片耳ちょんぎったろか(ヨモギ|イ|チヨウのMKZ君が所属していた)、Five New Old、フレデリックが出演を果たしていた。今思えばすごいな。
そんなことより、僕らは就職、進学、サークルに明け暮れていた。今思えばもったいないかもしれないけれど、当時はそれがベストアンサーだった。馬鹿だ。
大学のサークルではコピーバンドを組みまくって、色々スキルが鍛えられた。100バンド以上組んでいた。
Foals、Deerhoofをやったと思えば、ナンバガもしたし、ブレイカーズもしたよ。
Emu sickSと絡んだ思い出も多くって、かけがえのない日々だった。
そしてEmu sickSは、大学卒業間近にしっかりとした音源を作ろうということになり、こんぼいさんに相談。奈良を紹介され、民家の二階のスペースを利用した不思議なレコーディングスタジオで録音した。エンジニアの小島さん、元気かなぁ。
IDLE BOYSというバンドを組んでいて、どこか飄々とした雰囲気をもつ優しい方だった。
そこで出来た音源が『PALPABLE』。今思えばまだまだな音源なんだけど、その時はもう、最高傑作が出来た!キラーン!っていう感じだったよ。今聞いても好きだけどね。
その時の持てる技術をすべて使ったつもりの音源が完成して、あれ、作ったからには売らないとなぁ、となった。
かくして、大学を卒業してもEmu sickSをのんびりと続けることになった。
2012年の4月になって、これまで毎日のようにあっていた四人はバラバラになった。
なかじんは大阪に就職、大善は山口県に研修の後に名古屋勤務へ、まさきはそのまま大学院へ、僕は違う大学の大学院に進学したものだから、京都の方面へいくことになった。
ペースがぐっと落ちた、大善がライブに来れなくなった、土日しかライブが出れなくなった、どうなる?!Emu sickS!
この時が一番ピンチだったかもしれない。
次回へ続く。
Emu sickS 16ビートはやお