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夜明けは訪れるのか(5)

10月25日(水)にEmu sickS初の全国流通音源『夜明け前のジーニアス』が発売になりました!!嬉しいよーーーー!!!!!!!

(最近のアザラシはパソコンも使いこなす)

2008年に結成して、ダラダラと続けて大学卒業、社会人と大学院生2年目になった僕たちは、新年度早々ゲスの極み乙女。と対バンした。これが本物のバンドか!となってバンド活動の楽しさを本気で知り始めたのであった。

ゲス極と対バンしたときに、名古屋でイベンターをしているちょこたんさんという人物に出会った。「名古屋でライブしませんか?」彼はこう、僕らに声を掛けてくれた。

僕たちはそれまでライブはずっと大阪京都くらいで、全然遠地でライブしたことがなかった。願望はあったけど、つてもなかったしコミュ力もなかった。あっさり2ヶ月後に名古屋へライブしに行くことになった。

2013年6月、SAKAE SPRINGの裏で行われていたイベントに出演することに。新栄SOUL KITCHENという日本一狭いライブハウスを自称するハコにでた。確かに小さかったけど面白いライブハウスだった。ドラム叩いてる時に腕がガンガン壁にあたったのを覚えている。距離の近さが最高だった。

ここでみそっかすのキーボードがセックスJAPANというとんでもない名義でソロ出演していた。名古屋狂ってるなと思った。

この日に僕らは広島のバンド、ウサギバニーボーイと初めて対バンした。

その前に、京都GROWLYのCUSTOM NOISE企画でウサギバニーボーイを見ていた僕は、こうして全国各地でバリバリ演奏しているバンドと名古屋であたれるという事実に興奮していた。これでEmuも全国各地でライブしているバンドの仲間入りだ…!なんて思っていた。

しかもウサギバニーボーイはギターボーカルの高宮さん以外メンバー入れ替わり制で、総勢20名以上在籍している奇妙奇天烈な形態をとるバンドだった。この形態はバンドを続ける上である種の発明だ。

この頃、僕らはバンドで初めて自主企画をしようとしていた。「バンドちゃんとやってるよ!」の決意表明みたいなもので、レコ発とか、そういうものではなかったけれど、「とにかく何か企画しないと!」という焦燥感しかなく、FANJのこんぼいさんと相談しながら、あーだこーだ言いながら進めていた。

そのときの企画フライヤーがこれ(アザラシはこのころ影も形もでてこない)。

vijonで対バンしたときから話したり、企画も呼んでくれたり何かと縁のあるLambdaにも出てもらった。同世代でヒリヒリするバンドが多い中で(ほら、僕人見知りだし無駄に尖っていたからさ、勝手にヒリヒリ感を感じて仲良く慣れるバンドは少なかった)、たしかにライブはヒリヒリしていたけれど、なんだか人的に仲良くなれた彼らにもでてもらった。

ちなみに後のLambdaのギタリストになるニシダサトシは僕らの大学の後輩だ(やめちゃったけど)。そして後に僕はしばらくLambdaのサポートドラムを叩くことになる。

そしてFANJのこんぼいさん率いるE.X.P(ちなみにドラムは「にゃはは」と笑うちりりんさんだ)、先述のウサギバニーボーイ(広島のバンドを企画に呼べた!と小躍りした)、大学の先輩NONONO、元リケッチアふじーさんが所属するナードマグネットといった具合だ。

今振り返ったらすっげーナイスなイベントじゃね?と思うけれど、もう僕は当日まで不安しかなかった。当日それなりにイベントとして成立した安堵感からか、ウサギバニーボーイに多めに交通費を支払った。

そのせいで高宮さんはある種の後ろめたさを感じたのか、「恩返しせにゃいかん」とあれこれイベントを組んでくれたり、家に泊めてくれるようになった。

ナードマグネットのふじーさんが、企画前にこんなことをつぶやいていた。

そして企画の日、Emu sickSのライブ中、いたるところ(主にふじーさん)から「16ビートはやおー!!!」という怒号が飛び、ライブが終わったときから、僕は16ビートはやおとして生きていくことを余儀なくされた。

その後喜々としてちょくちょくツイートするふじーさん(ドラえもんの映画を見に行ったとき、ふじーさんはほんとにきれいな涙を流していた。スクリーンの光に照らされた彼の涙は本物だった。そのおかげで僕は映画に集中できなかった。)

言質をとってきました。

そして、後に須田さんから「浪速のブロック・パーティ」と名付けられ、今のEmu sickSの基礎(?)が出来上がったのである。

企画してなかったら、ナードマグネットが出ていなかったら、僕は16ビートはやおになっていなかった。もしなっていなかったら、ダラダラとバンドを続けてただけかもしれないね。

名づけられたことで、なんだか僕が16ビートを背負わないといけない気がしてしまったのだ。

こうして府外にもいき、初企画もし、段々とバンドとしての形がようやく、ようやく整ってきたEmu sickS。

けれども一方で僕は大学院生として修論を書いてゲロゲロになっていた。

あまりのアレで寝起きで吐いたりしていたし、ベッドで寝ると熟睡してしまうので椅子や隙間で変な体制で寝たり、寝ないようにホラー映像を一日中流しっぱなしで勉強したりしていた。

そして修論があるというのに、なぜかバイトを週5で入れられていてお好み焼きを焼きまくっていたり、もうわけがわからなかった。バイト先のおじさんと二人で飲みに行って、楽しくなりすぎて一人で帰っている帰り道で派手に横転。顔面から地面に直撃し、メガネが損壊。割れたメガネが顔に刺さったまま帰宅した。でも眠たかったからとりあえず寝た。

朝起きたら血だらけでサスペンス劇場だった。顔がカービィみたいになっていた。

なんかでも、バンドが充実しはじめて楽しくなり始めた。バンドっていいなぁ。そう思いながら、毎日奮闘していた。

次は2014年、大学院生を卒業してからの話になる。そして、16ビートはやおとして活動することになったため、色々おもしろい事件が起き始めたのである。

次回へ続く。

Emu sickS 16ビートはやお


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