「サビ頭にクラッシュシンバルは必要か」を考えすぎて「16ビートはやお」としての自我が崩壊しかけた話
- 16ビートはやお
- 2019年6月21日
- 読了時間: 3分
最近悶えるほどにずっと考えているんだけど「サビの頭にクラッシュシンバルは必要か」問題。
バンドをやっていると無意識にバカスカと叩いてしまうんだけど、「果たしてこれは必要なのか?」と疑問を持つようになっている。
疑問を持ってからは批判的に自分のドラミングを見つづけていて、自分の中で「クラッシュシンバルを叩く恐怖」がついて回った。「ここいる?」「ここいらない?」頭の中の小須田部長が「いる音」「いらない音」を迷いながら分ける日々が続いた。(あ、小須田部長なんてしらないよね…)
結局自分の中で出た答えは「どっちでもいい」なんだけど、常に「クラッシュシンバルは必要か否か」の疑問を持って一打一打刻んでいくことが重要なんだと考えている。サビの頭にクラッシュが入らないほうがかっこいい音楽はいっぱいあるし、むしろ世界にはそっちのほうが多いんじゃないかなくらいに思っている。何の信憑性もない僕調べのデータである。
もとよりドラムはビートを表現する選択肢の一つに過ぎない。
きっとこんな疑問がふつふつとわいてきたのは、日本のみならず、海外のサウンドがよりポップスに回帰し、80年代と電子音が邂逅し、よりバンドという形態にこだわる必要がなくなり(もとから無かったのかも)、その分自由度が飛躍的に増加し、人がドラムを叩いて出す生のビートがどんどん淘汰されてきたと感じ始めたからなのかもしれない。そしてあくまで僕の個人的な感想に過ぎないので実際は全然違うかもしれない。
ともかくドラマーとしての存在価値の消失を危惧し始めた自分がいた。
だから僕は今更になって劇的にKraftwerkにハマった。
(最高じゃん)
このままでは16ビートはやおとしてのアイデンティティを失い、「電子16ビートはやお」として生まれ変わらなければならない。これは難題。「16ビートフォーエバー」とか言っている場合じゃない。
けれどなんとなく今後、ドラマーを照らす光もみているような気もする。これからは人間(アザラシも可)の叩くビートの重要性が「個性」にシフトしていくような気がしている。そして「個性」と「下手さ」を履き違えないように練習しなきゃなと奮起している。人間は一人ひとり体の関節や筋肉の使い方がバラバラだし、これまで聴いてきた音楽や歩んできた人生やブラック企業に勤めた経験をビートに載せることができる。音楽って素晴らしい。
どのみち僕はまだまだまだまだまだ練習が足りない。アンサンブルの理解も足りない。これからもっともっとドラムスティックを折りに折って練習しなければならない。ごめんな将来的に折れるドラムのスティックよ。
そして日本ではこれからギターロックも近い内にまた勢いづいてくると思う。だってかっこいいもん。だから昭和平成への敬愛を感じさせつつ令和にアップデートされたポップスやギターロックが乱立するかもしれない。
まぁ、もっと先の将来、ドラマーはそういった「個性」すらも取り入れたAIに取って代わっているかもしれないね。「バディ・リッチ」とか「キース・ムーン」とかがプリセットされててさ。その人間が叩いているように叩くわけ。そのときは是非「16ビートはやお」も入りたいものである。本当に電子の世界で永遠に16ビートを刻むことになるかもしれない可能性に胸を膨らませる日々である。
そして僕は、今は、あえてバンドという形態に固執して、ZOOZというバンドでポスト・パンクをしっかり体現していこうと思っている。これもまた世相から離れた頑固な案件ですな。でも、良いものは良い、をちゃんと作っていきたいな。そうすれば世相から離れていても最先端になれるかもしれないよね。じゃあまた。
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